昭和二十年(一九四五年)七月二八日、由良港内の陸上・海上で軍艦旗掲揚が終わったばかりの頃、その日も連日の如く空襲警報が発令され、B29が南の空から北へ編隊で、飛行機雲の尾を引いて通過するのを見送る。突如、真夏の青空上空に米軍艦載機が沖合から由良港内に突っ込み、更に衣奈方面へ旋回しては再び執拗に波状攻撃を繰り返してきた。阿戸の見張り所(笠松山とお禿山)からの機銃の応戦、周辺の砲台・港内在泊各艦艇からも一様に応戦の火ぶたを切る。
なかでも吹井の海面に陸岸から繋留していた海防艦三十号からも、全砲火が一斉に火を吹いた。これを認めた敵機は、海防艦三十号に対して搭載機銃と爆撃の集中攻撃を加えてきた。必死の応戦もむなしく、延べ八十数機の集中攻撃に破弾数箇所、大火災の末沈没したのである。
海防艦三十号では、艦長以下六十六名が戦死、副長以下多数の重軽傷者は地元糸谷区民の方々のの各家庭や防空壕に運んで手当をし、紀伊防備隊医務課にも多数の重傷者が担架で運ばれた。なお戦死者は糸谷の光台寺や開山興国寺に運ばれ、火葬或いは土葬とされた。
同年八月十五日やがて終戦、平和がよみがえった糸谷区民の有志の方々の発案で寄進を募り、重山の裾に当時の海防艦撃沈の岸壁に、昭和三十二年(一九五七年)七月慰霊碑が建立され、毎年命日には供養が続けられている。地元海上自衛隊でも、この例年の供養として隊員代表が参列され、壮烈な戦闘により散華した勇士のみたまの冥福を祈っている。
昭和二十八年(一九五三年)二月八日、海防艦は浜野万吉氏等神戸のサルベージ会社が来て浮上作業、江の駒の浜に引き上げ供養した。 |