時代の移り変わりにはなす術もない。戦争が日華事変となり、やがて世界戦争へと突入してゆく日本にとって、それは晴天のへきれきであった。
軍部の町か商港か−そんな時、昭和十年七月二日、突然、由良港に巡洋艦入港、かつ水上飛行機なるものを初めて見ると、続いて七月二十七日、米船アセルフォーム号(一万五百屯)が重油を満載して入港、次いで十月十六日軍艦『しらたか』入港、村民に見学さすなど、軍事色が高まるなかで、ついに昭和十二年三月頃から阿戸中州に紀伊防備隊の建設が、原庄組によって施工され、里の五明に水源池、同じく士官官舎の設営建設等が始まった。
水源池の設営は、その水を防備隊に給水するもので寺田池の溜水と由良川の水、四基の井戸水から送水されていた。更に由良内に機雷学校、江の駒に特攻隊基地、お禿げ山・紺源山・笠松山に機関銃砲装備と、軍部の態勢は着々とすすめられていった。昭和十四年十一月防備隊の開隊から四年目軍備の整った由良では、村民の決意も新たに非常時に備えた。出征兵士の見送り、英霊の帰還、勤労奉仕、常会、配給制から米の買い出しと、次第に戦時態勢へと入っていった。
|