一方、紀伊防備隊もごった返し、役場の機能がマヒするというところまできた。戦争が生んだ悲劇は戦後の食料難や物資の不足までひびいた。タバコを買うのに朝早くから近くのたばこ屋の前に並び、わずか十本入りのピースが数分で売り切れ、それから仕事にでかける人が多かった。また、買い出し列車は連日超満員、切符の乗車制限でなかなか乗車券が買えず、特に遠距離切符が手に入りにくかった。朝早くからかつぎ屋と称する闇屋が来て、由良駅は人でいっぱい。客車の窓ガラスがたたき割られたり、殺人事件まで起きた。当時の病院といっても栄養失調ぐらい。少々あやしいものを食べても中毒せず、たまにはメチルアルコールで目をつぶしたり、命をとられたりするくらい。消化不良で腹をこわすこともなく、ほとんどの人は苦心して買出したイモを食って、ガスばかり放出していた。しかし半農半漁の由良では、漁師と百姓の間で米と魚の交換をし、案外困ることもなかったが・・・・。
言論統制と配給時代、欲しがりません勝つまではの時代も終戦と共に消え、専ら消費生活に入った由良では、家庭も落ちつきをみせ、成金や商業人も増えて成功する人が多くなった。由良独得の名産くずの根をついてかたくりにし、海の潮を炊いて塩をつくったりした。また、山の荒地を開いて畑にし芋を栽培、食糧自給に乗りだした。
荒れに荒れた戦前戦後、戦争の悪夢からまだ醒め切れぬ昭和二十一年(一九四六年)十二月二十一日。突然大地がゆれ、ゆさぶる音に人々は飛び起きた。南海大地震と大津波である。旧由良だけでも死者十九名、全壊家屋五十三戸、流出十戸という被害であった。それはまさに予期せぬ地獄の惨禍であった。犠牲者は荼毘にふされ悲しみのうちに供養されたが、復旧は思うようにはかどらず、家という家は泥がはいって手のつけようがなかった。道路という道路にはゴミや家財道具・小舟まで流れてきて、歩行もできない状態。波静かだった由良湾も赤サビで流したようで無気味な感じだ。
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